
2022年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」に決まった。 番組タイトルの鎌倉殿は鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(1147~99年)のこと。善光寺にゆかりの深い頼朝がどう描かれるのか、今から楽しみだ。
頼朝が、善光寺再建中興の祖であるとする説は間違いない。鎌倉幕府の編さんと言われる歴史書「吾妻鏡」に、文治3(1187)年、頼朝が信濃の有力豪族に善光寺再建を厳命した、と明記されている。
建久8(1197)年、頼朝は善光寺参詣に訪れたとされている。それについての確証はないが、善光寺や周辺には、頼朝にまつわる伝承地が数多くある。
西後町の「紫雲山頼朝院十念寺」。頼朝一行が通りかかると、紫雲より善光寺如来が現れ、十遍の念仏を授けたという。
権堂町アーケード街西側入り口近くの「往生院」は、頼朝が休憩した場所と伝わる。そこには小さな蓮(はす)池があり、ハスが見事な花を咲かせていた。善光寺へ向かう途中に頼朝がハスの美しさを思い出し、見返ったとの言い伝えから、「酒饅頭本舗つるや」の前には、「見返り橋」の由来を記した標柱が立っている。
善光寺山門南側にある「駒返り橋」。頼朝が乗った馬のひづめが石橋の穴に挟まってしまったため、頼朝は馬を返してそこから奥へは歩いていったという伝説があり、端の幅1メートルほどの石板には野球ボール大の穴がぽっかりと空いている。

中御所の「観音寺」の本尊は、頼朝の守り仏・髻馬頭観音菩薩。頼朝が頭の上で髪の毛を束ねた「髻」に入れておいた観音からのお告げにより、寺が創立されたと伝わる。
そのほかにも頼朝にまつわる伝説はいくつもある。
当時、鎌倉から信濃へのルートは、倉賀野(現・群馬県高崎市)まで北上して中山道、北国街道経由で、どんなに急いでも往復に半月はかかっただろう。
武家政治を仕切った頼朝は、京都の公家勢力と丁々発止の日々の中、合間には仏事や神事を重ね、多忙の極みだった。果たして善光寺参詣は可能だったのか。
(2020年3月28日掲載)
写真上=十念寺
写真中=頼朝が乗った馬のひづめが挟まったと伝わる穴(写真下)。頼朝はその際落馬したと伝え聞いている地元住民もいる
写真下=「頼朝公」と刻まれた観音寺の石柱
