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16 作詞に没頭 ~書いたのはもっぱら演歌 音楽出版社専務に見せる

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 大学の授業には出なかったので時間だけはたっぷりとありました。しかし、毎日何もしないでただぶらぶらと暇つぶしをしているだけの生活にいいかげん嫌気がさしていた私は、「歌手」の次に何かをやろうとひそかに考えていました。やる気だけはあったのです。

 大学1年の、そんなある日のこと、当時売れっ子作詞家だった、なかにし礼さんが「作詞ほど簡単にもうかる商売はない」というようなことをラジオで話しているのを耳にしました。それを聴いた時、そんなにもうかるのなら私もやってみようか、と思いました。

 それで作詞を始めました。といっても、まったくの素人ですから書き方さえ分かりません。そこで、作詞入門書、「月刊明星」や「月刊平凡」の付録の歌本を参考に見よう見まねで書いてみることにしました。暇にまかせて一日に3作ずつは書いたでしょうか。1カ月間で100作ぐらいの歌詞が出来上がったところで、作詞家志望の友達と、あるスナックで知り合ったK音楽出版社の専務と名のるHさんを訪ねました。

 K音楽出版社は東京六本木の繁華街から遠く離れた住宅街の普通の民家の中にぽつんとありましたが、それでも「K音楽出版社」という立派な看板が出ていたので、何の疑いもなしに門をたたきました。後で分かったことですが、K音楽出版社とは名前だけで、ほとんど活動もしていなければ実績もないような会社でした。当時の私にそんなことは知る由もありません。なんのコネも力もない若者にとってはわらをもつかむような気持ちでした。そんな私たちに対し、Hさんは言いました。

 「君たちの詞を読んで感じたことは、これではまだ使いものにならないが、精進すれば大きく伸びる才能があるかもしれないということです。ですから、どんどん書いて私のところに持ってきなさい。いつかきっと芽が出るでしょう」

 Hさんのこの一言は身にしみました。暗い山中で一筋の灯を探し当てたかのような感動でした。それからは来る日も来る日も歌詞を書き続けました。歌詞といっても、その頃はフォークソングなどまだ認知されていませんでしたし、ましてやニューミュージックなんて存在していなかったので、書くのはもっぱら七五調スタイルの古臭い演歌でした。青臭い若造が水商売の女性の気持ちを一生懸命につづっていたとは笑止千万ですが、そのときは精いっぱいだったのです。例えばこんな詞です。

 「ネオンがえしの池袋」

(一)化粧おとして また塗って 涙流して また笑い はかない運命と 知りながら 海に溺(おぼ)れて 歩いていく ネオンがえしの池袋

(二)白い花束 目に浮かぶ 優しい母の 三回忌 行ってわびたい 今すぐに だけどだけども もう遅い ネオンがえしの池袋

(三)夢を見ました 人並に 家庭持ちたい マイホーム そんな想いを ルージュに こめて歌うわ 今晩も ネオンがえしの池袋

 とにかく書けるだけいろいろな詞を書きました。そして書きたまるとHさんに見てもらいましたが返事はいつも同じで「この詞はしばらく預かっておきます」。それでも書き続けました。
(2020年4月18日掲載)



写真=作詞家を目指していた19歳の私
 
富沢一誠さん