
来る日も来る日も歌本を片手に作詞に励んでいた大学1年の終わりごろ、偶然ラジオの深夜放送でショッキングな歌を聴きました。岡林信康の「私たちの望むものは」でした。
「社会」とか「殺す」とか「奪い取る」とかという、演歌の歌詞には絶対出てこないような言葉が頻繁に使われていることにびっくりしました。私の考えていた歌の概念がガラガラと音をたてて崩壊していくのを感じました。岡林の歌は私のハートにストレートに突き刺さってきました。言葉が生きているのです。言葉が生きているからこそリアリティーが伴っていました。自分の言いたいことを言い切っている。これはすごい、と思いました。
岡林を知ったことにより私の興味は「フォークソング」に集中していきました。岡林の反体制的なかっこ良さを知ると、内容のない演歌の詞を書いていることに嫌悪感が生じてきました。どんなに書いてみたところで、しょせん物まねの域を出ることはできません。そんなことを痛感すると、私は演歌よりフォークの詞を書いてみたいと思いました。岡林のように自分の言いたいことを主張した方がよっぽど気分がいいし、かっこいいと思いました。私の志向は完全にフォークになり、七五調の定型詞から散文詞へと変化しました。
私はできるだけ素直に自分の心情を詞にすることを心がけました。そして自信作が一編できあがりました。「明日こそ」という詞です。
「明日こそ」
何もしないで 昨日は終わった
何もしないで 今日も終わった
何もしないで 明日も終わるだろう...
「明日こそ」という自信作の他にフォーク調の詞を何編か書いてK音楽出版社へ持って行きました。自分の言いたいことは言い切れたという自信があったので、「自信作が出来上がりましたので、ぜひ読んでください」と言って手渡すと、H専務はパラパラと読んで、その詞集をバサッと机の上に投げ捨てると、怒りをおびた強い口調で言いました。
「キミ、この詞は何ですか? 演歌じゃありませんね。こんなフォークみたいな詞を書いていてはだめですよ。フォークなんて売れないんだから...。いいですか、これまで通りに演歌の詞を書いて持って来なさい」
黙って聴いているとHさんは脅かすように言いました。
「いつまでもフォークなんて書いていると、私は面倒なんてみないからね」
その言葉は辛辣(しんらつ)でした。もう面倒なんてみてもらうのはやめようと思いました。書くならフォーク、演歌なんてうんざりだと思っていたからです。しかし、Hさんに見放されてしまっては、作詞家になることは断念せざるをえませんでした。
作詞家になる夢は消えてしまいましたが、何かをやりたいという情熱はますます強くなる一方でした。
そんな大学2年の秋ごろ、ラジオで衝撃的な歌を耳にしました。吉田拓郎の「今日までそして明日から」です。初めは何げなく耳に入ってきた歌でしたが、いつしか「そうだ、そのとおりだ」とうなずいている自分を発見してびっくりしたものです。拓郎の歌との出合いで、私は拓郎のように行動を起こさなければならないと決心したのです。
(2020年4月25日掲載)
写真=岡林信康「私たちの望むものは」(1970年)のレコードのジャケット