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19 フォーク評論家 ~ナンバーワンになるため 偶然にも見つけた「隙間」

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 音楽評論家としてスタートする時、私は用意周到な計算をしていました。それなりに世間知を働かせていたわけです。評論が掲載されて2週間ほどたった頃、私はなけなしの1万円札を握り締めて、渋谷かいわいの古本屋を数軒回りました。あらゆる音楽雑誌を買い求めて、評論家としての傾向と対策を練ってみようと思ったのです。やるからにはナンバーワンになりたかったからです。

 「新譜ジャーナル」「ガッツ」「ヤング・ギター」「ミュージック・ライフ」「ニュー・ミュージック・マガジン」「音楽専科」などの音楽雑誌は、だいたい1冊80円程度で買うことができました。1万円で120冊ほどまとめて買い込んで、それから1カ月間ほど受験勉強で鍛えられた整理、統計、分析の能力をフル回転させて、既成の音楽評論家の得意分野をはじき出していきました。福田一郎さんはアメリカンポップス全般、湯川れい子さんはエルビス・プレスリー、星加ルミ子さんはビートルズ...と図式化していくと、残念なことに私が入り込む余地は既に残されてはいなかったのです。

 私はどんな狭い分野でも、そこでナンバーワンになることの方が、さまざまな分野で平均点を取るよりも大切だと考えるようになっていました。高校時代の私は、どの科目も平均して良かった。それが東大合格につながりましたが、東大に入ってから気づいたことは、いくら平均点が良くても、総合点で1番になれない限り、どうしようもないということでした。

 総合点で1番になることは難しい。だとしたら、どこでナンバーワンになれるのか。私はがくぜんとしました。どんな科目にも、その科目だけはできるという人が必ずいて、平均点がいくら良くても、私は2番手に甘んじざるをえなかったのです。これではまずいと思いました。2番手とは最後の切り札がないということ。そう思った時、私はどんなに狭い分野でもいいからナンバーワンになって、これだけは他人には負けないという「切り札」を手に入れようと思ったのです。

 あらかじめその分野の権威がいるところに入っていっても、良くて2番手にしかなれません。スタートラインから不利な状況を背負い込みたくはなかったのです。どうしようかな、と思案している時に、「日本のフォーク」という項目がふと目にとまりました。図式では、日本のフォーク=三橋一夫さん、田川律さん、東理夫さんとありましたが、この3人は目を凝らしてみると、三橋一夫さん=ボブ・ディラン、田川律さん=ウエストコースト、東理夫さん=カントリー&ウェスタン、というふうに洋楽とも重複しているではありませんか。二つの項目を見比べていて「あっ?」と思いました。三橋さん、田川さん、東さんは本職は洋楽で、その片手間仕事として「日本のフォーク」の評論をこなしているということに気がついたのです。ここが自分の領域だ、やるなら「日本のフォーク」しかない、と思ったのです。

 当時(1971年ごろ)は吉田拓郎がまだ売れる前で、日本のフォークだけを専門にしても音楽評論家は食えなかったのです。そこだけ隙間が残されていて、それを私が偶然にも見つけた、というわけです。こうして「フォーク評論家」としての私の人生はスタートしました。20歳の頃、東大2年に在学中のことでした。
(2020年5月16日掲載)


写真=音楽評論家としてスタートした頃の音楽雑誌
 
富沢一誠さん