
作詞家に挫折して以降、ただいたずらに日々を過ごす生きる屍のような生活が続いていました。だが、何者かになろうという野心を捨て切れない者にとっては、ときにはたまらなく嫌になることもあります。そんなとき私はいつだって決心したものです。明日こそ早起きして講義に出ようと...。でも、起きるのはいつも昼過ぎでした。
そんな繰り返しが現実でしたが、私と違って吉田拓郎は、フォークを歌うという行為によって何かをつかもうとしているようでした。少なくとも私にはそう思え、拓郎がとてもまぶしい人間に感じられました。私の「青春の風」が拓郎の歌「今日までそして明日から」と共鳴して反応を起こし騒いだのです。それからすぐに大学を中退。20歳でした。私は拓郎に刺激を受け、触発され、跳んだということです。
しかしながら、思い通りにはいきません。それでも私はあきらめませんでした。何かをしたい、という思いは消え去ることがなかったからです。
そんなある日のこと、アルバイトの帰りに下北沢駅前にある書店で何か面白い本はないものかと物色していると、「フォークの神様"岡林信康"特集」という活字が目に飛び込んできたので手に取ると、フォーク専門の音楽誌「新譜ジャーナル」でした。さっそく買い求めて読んでいると無性に腹が立ってきました。なんだこの記事は、こんなことしか書けないのか、こんなのだったら、俺の方がよっぽどましだ。そんな思いが湧き上がってきました。これでもプロか? そう吐き捨てると、私はその場で思いのたけを文字にしていました。
それは岡林の3枚目にあたる最新アルバム「俺らいちぬけた」への批判でした。これが「俺らいちぬけたくないよ 岡林さん」という私にとって初めての評論を生むことになります。書き上げた評論にメッセージを添えて、私は「新譜ジャーナル」編集長宛てに郵送しました。結果的に、この投稿が私に幸運を呼び込むことになります。
投稿して1週間ほどたった頃、「会いたい」という連絡が来ました。指定の日に編集部を訪ねると、塚原稔編集長から「音楽評論家としてやってみないか。その気があるのなら全面的にバックアップする」という申し出がありました。チャンスだ、と思いました。「ぜひやらせてください」。この一言で私の人生は決まりました。
音楽評論家としての私の正式なデビューは1971年10月25日発売の「新譜ジャーナル」(11月号)でした。私にとっての処女評論「俺らいちぬけたくないよ 岡林さん」が掲載されたのです。
「私の音楽論」という読者の投稿ページに掲載された私の評論に対し、編集部宛てに読者から賛否両論、たくさんのはがきが寄せられました。それまでにも「私の音楽論」には何度か同じような投稿原稿が載りましたが、どれも大きな反響はなかったといいます。予想外の反響に編集部は色めきたったという話です。若い音楽の書き手がいなかったので、その後、私が重宝がられることになります。その意味ではきわめてラッキーなスタートだったといえるでしょう。
それにしても音楽評論家になろうとは夢にも思っていませんでした。たまたま自分の意見を主張したかったので投稿したにすぎません。そんな私を見つけてくれた塚原編集長に感謝です。
(2020年5月2日掲載)