
1972(昭和47)年は「フォークブーム」の幕開きでした。同年1月発売された吉田拓郎の「結婚しようよ」は、あっという間にヒットチャートを駆け上がり、ベストテン入りするほどの大ヒットを記録。このヒットと比例して拓郎の人気も急上昇し、マスコミは「フォークのプリンス・吉田拓郎」と盛んにはやしたてました。「拓郎ブーム」が決定的になったのは7月に発売された「旅の宿」。ベストテンのトップを独走する大ヒットとなり、同時発売されたアルバム「元気です。」がわずか1カ月間で40万枚を売り上げるというシングル盤並みのセールスを記録したのです。
拓郎ブームとともに、それまでアンダーグラウンドだったフォークがオーバーグラウンドに浮上しました。あがた森魚が「赤色エレジー」、ガロが「学生街の喫茶店」、古井戸が「さなえちゃん」、佐藤公彦(ケメ)が「通りゃんせ」、泉谷しげるが「春夏秋冬」、遠藤賢司が「カレーライス」などをヒットさせました。
73年、井上陽水が、さらには、かぐや姫が拓郎の後を追いかけるようにしてメジャーな存在となります。陽水は72年3月にシングル「人生が二度あれば」でデビュー。翌73年には「夢の中へ」「心もよう」と連続ヒットを飛ばして一躍トップスターの仲間入り。さらに同年12月に発売されたアルバム「氷の世界」は1カ月間で30万枚を売り切り、74年には日本で初めてのミリオンセラー・アルバムとなり「陽水ブーム」を引き起こす原動力となりました。ここにおいて、陽水は拓郎と並ぶフォークのスーパースターになったのです。
陽水の切り開いた「叙情派フォーク」をもう一歩推進したのは、南こうせつ率いる「かぐや姫」でした。47年ほど前、高度成長の陰りが見えた時代。若者たちはそれまでの学生運動に疲れ切り目標を失っていました。そんな不透明に沈んだ空気の中で、かぐや姫の「神田川」という歌は生まれました。73年9月のことでした。そして空前の大ヒット。100万枚を売り尽くしました。
誰もが思い出す、あるいは誰もが思い浮かべる心象風景を描いて、「神田川」は「同棲(せい)」という言葉を日常に溶け込ませ、時代を「優しさ」で染め上げました。「優しさ」はひとつの「風俗」となり、「優しさの時代」「優しさの世代」が生まれました。かぐや姫の歌は「四畳半フォーク」と呼ばれ、かぐや姫は「叙情派フォーク」のスターにのし上がりました。「神田川」は時代を的確に表現していただけに歌を超えた影響力を持ったのです。
続く74年になると、かぐや姫の台頭により触発されたグレープ、NSP、ふきのとう、猫、山本コウタローとウィークエンド、ダ・カーポなどがヒット曲を持って浮上し、フォークシーンは百花繚乱(りょうらん)の様相を呈するようになり、まさに「黄金のフォークブーム」が到来するのです。
71年10月、音楽評論家になる時、やるなら日本のフォークしかない、と予想した私の読みがずばり当たったわけですが、フォークブームに比例するかのように私の仕事も増え続けました。「新譜ジャーナル」は言うに及ばず、「ガッツ」「ヤングギター」などの音楽誌のほかに、産経新聞、東京新聞、スポーツニッポンなどの新聞、「平凡」「明星」などの芸能誌からも原稿依頼が来るようになりました。書き始めてから2年ほどで私は「売れっ子」の音楽評論家になったのです。
(2020年5月23日掲載)
写真=フォークのヒット曲が次々と誕生