
1973(昭和48)年いっぱいで、私はフォーク評論家として食えるというめどがつきました。東大を卒業予定の74年3月までに食えるようになるという課題は克服したわけです。あとは東大の卒業証書に代わるものを作るという課題をどう克服するか―だけでした。これもラッキーでした。「新譜ジャーナル」初代編集長で「深夜放送ファン」編集長だった中原雅治さんが独立してホーチキ出版を設立して、私に「何か本を書いてみないか」と誘ってくれたのです。
1カ月余りで400字詰め原稿用紙にして350枚ほどを書き上げました。その原稿を持って中原さんを訪ねました。その1週間後、単行本として正式に出版すると中原さんから伝えられました。「やった」と私は叫んでいました。これで東大の卒業証書に代わるものができると思ったからです。
73年12月1日、この原稿は「ああ青春流れ者」という書名でホーチキ出版から出版されました。「ああ青春流れ者」を持って正月に私は帰郷しました。本を出版したという報告と、実は中退していたという報告をしなければならなかったからです。私はフォーク評論家で食えると思った時、中退を決意しました。講義も試験も受けていなかったので、そのままいくと除籍になることは目に見えていたので、73年9月30日に東大の教務課に自主的に中退届を出したのです。
オヤジは私の処女出版を祝ってくれました。オフクロも本を手に取って「お前が本当に書いたのか」と褒めてくれました。長兄も次兄もわがことのように喜んでくれました。本の売れ行きは好評でした。
宴が盛り上がるにつれて、中退した、ということが言い出しにくくなりました。しかし、いつかは言わなければならないと思っていたので、意を決して「実は大切な話があるんです」と私は切り出しました。
「実は9月にぼくは大学を中退したんだ。ぼくには父ちゃんにあげると4年前に約束した東大の卒業証書がない。その代わり、ここに『ああ青春流れ者』という本がある。これを卒業証書の代わりだと思ってもらえないだろうか」
本を手に取ってオヤジは無言のままでした。
「東大に入れば誰だって卒業証書はもらえる。だが、東大に入ったからといって誰でも本が出せるというわけではないんだ。ぼくはそれをやったんだ。はっきり言って、ぼくは卒業証書より、この本の方が価値があると思っている」
オヤジの瞳にキラッと光るものがありました。
「ちょっと待て」。はやる気持ちの私を制してオヤジは諭すように話し始めました。
「お前が自分で決めた以上、お前の人生なんだから一生懸命やればいい。ただひとつだけ言っておきたい。何をやっても一流になるには15年はかかるということだ。そのことを肝に銘じて、お前が頑張るというのなら、父ちゃんはもう何も言わない。自分の人生なんだから自分の好きなようにやりなさい」
オヤジは宮崎県から孟宗竹を取り寄せて「花器」を作る美術工芸師。この道50年のベテランで、それだけに自由業の厳しさを知っていたのだろう。だから「一流になるには15年はかかる」と私にあえて言ったのです。
以来、「自分の人生なんだから、自分の好きなようにやりなさい」は私の座右の銘です。そして早くも「あの日」から49年という年月がたとうとしています。
(2020年5月30日掲載)
写真=初の単行本「ああ青春流れ者」。表紙イラストは東大の先輩で、後に作家になった橋本治さん