
時代は私に味方をしてくれたようです。私がフォーク評論家としてデビューした1971年秋ごろは、吉田拓郎、泉谷しげる、かぐや姫はデビューしたばかりでまだ売れていなかったし、井上陽水はデビューさえしていませんでした。つまり、私はフォーク創成期から音楽評論家として存在していたというわけです。
私の前に洋楽や歌謡曲を扱う評論家はたくさんいましたが、フォーク評論に関しては、その草分けは私であったのです。この事実には重いものがあります。拓郎、陽水、泉谷、南こうせつなどというアーティストたちと私は「同期」だということであり、フォーク界において彼らと「同期」であるということは怖いものは何もないということを意味しているからです。
拓郎は私より5歳上、陽水、泉谷は3歳上、こうせつは2歳上ですが、私は20歳とデビューが早かっただけに、年齢では後輩ですが業界年齢では「同期」だということ。それだけに私にはフォークの「主流」派意識がありました。とにかく無我夢中で書いていました。自分の意見や考え方を主張して、自分という人間の存在をたくさんの人に知ってほしかったのです。ただそれだけのために書いていたと言っても過言ではないほど充実感がありました。自分は生きているのだ、という実感と言ったらいいでしょうか。自分の感性を軸にして、自分の本音を吐き出すだけで爽快でした。
3年ほどたって、ふと振り返った時、私の音楽評論には自分なりのスタイルが出来上がっていることに偶然にも気がつきました。無我夢中で全力疾走している時には見えなかったものが、立ち止まって客観的に眺めた時に不思議と見えてきたのです。
そのスタイルとは? 私の音楽評論は生きているアーティストの「生きざま」と「音楽」を鏡にして、自分自身の「生きざま」を描き出すことにあるということ。その意味では、対象を語りながらも結局は自分自身のことを語っているのです。私の音楽評論は、ちまたでは「音楽評論」と呼ばれるより「音楽生きざま論」と呼ばれることの方が多いようですが、そのスタイルは既にこの時に確立していたのです。
フォークはあくまで己の自己表現手段である、というのが私の持論です。何か言いたいことがあるから口角泡を飛ばしてしゃべったり、書いたりするように、何か訴えたいことがあるからこそ詞を書き、曲をつけて歌うのだ、と思います。その意味では、人間がまずあって歌がある。歌があって人間があるのでは決してないのです。だからこそ逆に、聴き手である私たちは、その歌を通して、シンガー・ソングライターであるフォークシンガーの人間性、生き方、考え方などにまでふれることができるのです。
音楽は、はっきり言って、言葉では語れません。言葉で語れないからこそ音楽とも言えるのですが、それを承知であえて語ろうとする場合はどうしたらいいのでしょうか。人間があって歌があるのだから、その歌を作り出した人間を語ればいいということになります。いいというより、人間を語るしかないと言った方が適切です。それが私の音楽評論です。だからこそ、必然的に「音楽生きざま論」にならざるを得ないのです。
音楽生きざま論を編み出した時、これでいける、と私は確信しました。そのためにはアーティストと裸の付き合いをして、時にはぶつかり、けなし合い、共に感動しながら一つの共感を探し出すようになるのです。そして、その共感の成果が評論というわけです。
(2020年6月6日掲載)
(2020年6月6日掲載)
写真=デビュー3年目、新進気鋭の評論家時代の私。24歳