
1975(昭和50)年を境に、フォークはニューミュージックへ、と移行していきました。ユーミンこと荒井由実(現在の松任谷由実)の出現は衝撃的でした。いや、異質だった、と言った方がいいでしょう。
その頃の音楽シーンの大勢は吉田拓郎のメッセージフォークと、井上陽水、かぐや姫などの四畳半フォーク(叙情派フォーク)が占めていました。ところが、ユーミンは73年11月にアルバム「ひこうき雲」という、まったく「異質の音楽」を引っさげて登場しました。
私が初めてユーミンに会ったのはTBSラジオのMディレクターから「今度東芝レコードからデビューする女の子で、いいのがいるのだが、聴いてみてもし良かったら、プロジェクトチームに入って何かアドバイスしてくれないか」と頼まれたのがきっかけです。
チームでの私の役割はキャッチコピーを考え出すことでした。それまでのフォークとは180度も異質なユーミンのポップな歌を印象づけるには、どうしても分かりやすいキャッチコピーが必要だったのです。
キャッチコピーを考えることに疲れた時に、たまたま彼女のアルバムを聴いてみたら、なぜか精神的に落ち着いてきました。変な理屈は言わないし、だからこそ精神鎮静剤にもなる。そんな感じでした。これこそ彼女の音楽の魅力だと思いました。そう思った時、私の脳裏に「新感覚派」という言葉が浮かびました。
「新感覚派ミュージック」はファーストアルバム「ひこうき雲」のキャッチコピーに採用され、定義はパンフレットに印刷されました。これで万全だと思われました。しかし、フォークが隆盛を誇っている折、彼女の音楽はまさしく「異質」であり、新し過ぎたがゆえに売れなかったのです。新しさ、については彼女自身も絶対的な自信を持っていました。
「私は四畳半フォークなんて大嫌いです。私の音楽はイージーリスニングかな」。彼女はそう語り、自らの音楽を「中産階級音楽」と称しました。彼女が言うように、彼女の音楽はそれまでのフォークとは明らかに異質でした。歌には見事なまでに彼女の主張もなければ、生活の匂い、人間臭さもなかったのです。ただあったのは心象風景というか、イメージの世界で色彩感覚にあふれた風景画のようでさえありました。
「ルージュの伝言」は75年2月に発売されました。この曲は60年代のアメリカのポップス調で、何よりもリズムのノリが良かったし、詞のセンスもしゃれていて素晴らしかったので、結果的にこの曲はスマッシュヒットとなりました。
そんな下地ができ、ユーミン熱がくすぶり続けているとき、75年8月にユーミンが作詞作曲してバンバンが歌った「『いちご白書』をもう一度」、同年10月に自作自演の「あの日にかえりたい」が相次いで発表され、いずれも大ヒットとなりました。
「『いちご白書』をもう一度」は9週連続でシングルチャートの首位を独走したし、「あの日にかえりたい」は4週連続で首位をキープ。同時期に2曲も大ヒットしたことにより、好むと好まざるとにかかわらず、75年後半から爆発的な「ユーミン・ブーム」に突入しました。
ユーミンの音楽はフォークとは一味違ったポップスでした。そのためユーミンほど「ニューミュージック」という言葉にあてはまるアーティストはいませんでした。こうしてユーミン人気に比例するかのように、「ニューミュージック」という言葉も世の中に浸透していくことになります。
(2020年6月13日掲載)
写真=ユーミンの出現に、私は「新感覚派ミュージック」というコピーを考案した