
前回、善光寺表参道を境に東側の街並みを紹介した。今回は西側である。
大本願、仁王門北側の旧本堂跡(入り口に地蔵尊が立つ松屋旅館の場所)、大勧進...。これらはすべて表参道の西側にある。
民俗学の研究によれば、西側は、阿弥陀様の浄土であり、東側は参拝者が拝み伏す俗世界、というのが、庶民の感覚だ。
これは、本堂内部の構造を反映しているという。ご本尊が安置されている瑠璃壇は西側、善光寺を開山した本田善光と妻、息子の三卿像は東側に並ぶ。
多くの参拝者は東出口から退出するが、一度は西出口から出てみたい。代々の回向柱が並ぶ脇を通り、手洗いと茶屋の小路を歩き、湯福神社に至る。境内には本田善光の墓とされる大石がある。社前の小道を上ると長野西高校。整地の際に出土した赤色の箱清水式土器は渡来人が1、2世紀にこの地に定住した証左で、県下の弥生式土器の標準となった。

周辺の横沢町は善光寺建立時の大工・職人が定住した。なだらかな斜面に人家が密集する古い町並みの広がる一帯は通称「西長野」と呼ばれる。長野市の西部山地の山麓に当たる。
この西長野の地形から湧き出してできたのが、「善光寺七清水」。傾城(けいせい)清水を除く六つが参道を境に西側にある。枯れたり、汚染されたりで、今日も健在なのは、一盃清水(いっぱいしみず)と瓜割清水(うりわりしみず)の二つ。
一盃清水は遊覧道路沿いの花岡平の霊山寺境内に湧く。
少し遠いが足を延ばして訪ねてみたいのは新諏訪町公民館裏手のリンゴ畑に湧く瓜割清水。その冷たさでつけた瓜も割れるほどというのが名前の由来だ。
背後にそそり立つ郷路山の安山岩層を通過して湧き出ており、カルシウム成分を含み、おいしい。毎日のお茶や炊飯に利用する近隣住民も。

古来、門前町は飲料水に恵まれず、裕福な商家などは、箱清水などから出る水を毎日買っていたという。戸隠から水を引き、水道が敷設される以前の話だ。
西長野はかつて戸隠や鬼無里など西山の農産物集散地で、市場の機能を誇る商人町でもあった。西山特産の大麻は畳糸と船舶のロープの材料として全国に出荷された。
旭山が迫る一帯は半日陰(はんびかげ)の町とも言われるが、「もともとは長野村で、長野町になり、県名にもなったのさ」と、村名が県名になったことを、地元の古老は自慢する。
(2020年5月30日掲載)
写真上=瓜割清水。水量豊富で戸隠や鬼無里へ行く旅人の喉を潤した
写真下=大本願(左)はじめ善光寺の主要な仏閣は表参道の西側に位置する