
「一里塚を知っていますか?」
「昔、街道に1里(約4キロ)ごとに設置して距離を示す目印にした塚のことでしょ」
教科書で習ったにしても、本物を見たことのある人は少ないのでは。
徳川幕府は1604(慶長9)年、江戸日本橋を起点に東海道や東山道(とうさんどう)、北陸道に一里塚を築かせた。信濃の中山道、北国街道も同様だ。
「だんなさん、1里、10文でどうですか」
「8文なら乗ってやろう」
旅人はかご屋や馬方とこんな料金交渉をしたのだろうか。
長野市稲田地区に、一里塚が当時の姿のまま残っている。住宅街の一角にある、その名も「一里塚公園」に大きな円丘が二つ。北国街道の一里塚の一つ、「稲積(いなづみ)一里塚」だ。1967(昭和42)年、市の文化財に指定された。
北側の塚は高さ2・2メートル、直径11メートル、南側の塚は高さ2.4メートル、直径14メートル。北側の塚は松が堂々とした姿を見せているが、南側の塚の松は幹の中の腐食による空洞化などで、倒木の危険もあることから最近伐採され、「2代目」の松が補植された。

一里塚は本来、稲積一里塚のように、街道の両側に対で設置された。しかし、時代が下って、道路の拡幅や、一里塚の必要性がなくなると、壊されたり、片側のみになったりと、次々に姿を消していった。
北国街道ではほかに、三輪地区を通る通称・相ノ木通りから善光寺仁王門に通じる旧道の曲がり角に一里塚があったと伝わるが、今は跡形もない。
稲積一里塚が築造当時の原形に近い形で残っているのには理由がある。
江戸時代初め、徳川幕府により、古来の官道であった東山道が北国街道に指定されて、稲積一里塚が牟礼宿―善光寺宿間にできたのだが、その約10年後、北国街道の道筋が変わったという。
変更後、牟礼宿から善光寺宿までの距離は短くなり、利便性は高まった。こうして稲積一里塚は築造から間もなくして無用になってしまったが、そのおかげで当時のまま奇跡的に残ったというわけだ。
ただ、南側の塚の松が伐採され、一抱えもある松の切り株が頂に残っているのを見ると寿命とはいえ、残念に思えて仕方ない。
(2020年6月27日掲載)
写真=稲積一里塚。北側の塚(左)と南側の塚