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24 評伝ルポタージュ ~連続してベストセラーに 自身の鉱脈掘り当てたと

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 フォーク評論家としてスタートした時、この分野で必ずナンバーワンになろうと思いました。後にフォークがメジャーになりニューミュージックと名を変えたことに伴い、私は「ニューミュージック評論家」と呼ばれるようになりますが、その日は意外に早くやってきました。ニューミュージックが隆盛をきわめたことで、歌謡曲サイドがニューミュージックを無視できなくなったのです。

 1979年8月、日本レコード大賞運営委員会事務局より、私は正式に「レコード大賞審査委員」の要請を受けました。フリーの音楽評論家としては史上最年少の28歳でした。

 正直言って、要請を受けた時「ついに来たか!」と小躍りしたものです。レコード大賞といえば、数ある歌謡賞の中で最も伝統があり、その権威も知名度も群を抜いていました。フリーの音楽評論家として身を立てている者にとって、その審査員に選ばれるということはステータスを保証されたことであり、このうえない名誉です。

 加えてオヤジからの「ぜひやった方がいい」という強い要望にはまいりました。オヤジぐらいの年齢になると、まだ歌謡曲派であり、大みそかはレコード大賞とNHK紅白歌合戦を見るのが行事です。そんなオヤジにとって息子がニューミュージックなどという訳のわからない音楽の評論をしているより、誰もが知っている栄光の「レコード大賞」の審査員をやっているという事実の方が、自慢になると考えても不思議はありません。

 レコード大賞審査員という、いわゆる「踏み絵」を目の前にした時、私の心は大きく揺れました。反権力を旗印にかかげ、これまでやってきたという自負のあった私ですが、恥ずかしくもおたおたとしてしまいました。つまり、レコード大賞審査員という肩書にはそれだけの重みがあったのです。

 受けるべきか、受けざるべきか、私は大いに悩みました。そして出した結論は、あえて「辞退」するということでした。理由はいろいろありましたが、要は取り込まれたくはないと思ったのです。レコード大賞の審査員になるということは、音楽評論家として「一流」だというお墨付きをもらえること。だが、私は「一流」の上を狙ったのです。レコード大賞審査員をあえて辞退する、という戦略は私が一流の上を行く切り札だったのです。

 その頃の私は音楽評論家として絶好調でした。なぜなら「松山千春・さすらいの青春」「さだまさし・終りなき夢」が連続ベストセラーになったからです。「松山千春―」は20万部、「さだまさし―」は10万部以上売り上げ、私自身が考え出したノンフィクションの手法を使った「評伝ルポルタージュ」は私の武器になると確信しました。そして、これで私自身の鉱脈を掘り当てたと思いました。

 いずれにしても、その頃の私は、レコード大賞審査員は辞退し、また自著が2冊ともベストセラーになって、知らず知らずのうちに、ニューミュージックは俺でもっている、という「(奢)(おご)り」がありました。その奢りが客観的に見ることを曇らせていたのかもしれません。私は必要以上に「ニューミュージックの富沢一誠」という肩書きを意識していました。しょせん、ロック、ポップスなんて主流にはなりえないだろう。主流はあくまでもニューミュージックだ、そう思い込んでいました。潮目が変わりつつあったのです。
(2020年6月20日掲載)

写真=ベストセラーとなった自著2冊
 
富沢一誠さん