
新型コロナウイルス感染症拡大は世界の様相をがらりと変え、日常生活にさまざまな混乱をもたらした。歴史上何度も猛威をふるった感染症。明治時代、日本で感染症が流行した時期に、善光寺にも訪れたフランス人の珍しい旅行記がある。今から130年ほど前に出版されたギュスターヴ・グダロー著「日本旅行」だ。
グダローは、横浜のフランス領事館員で事務代理の要職にあった。親日家で日本の歴史に詳しく、著書で義経伝説や川中島合戦にも言及している。
1886(明治19)年の夏、新潟県と長野県を12日間かけて視察した。首都圏と信越地方を結ぶ行程は半分は汽車だが、あとは馬力と人力車、川船が頼りの時代だ。

前年の85年、日本では赤痢、腸チフス、コレラの感染症が流行し、86年にはコレラが再び全国的に大流行し、患者15万人、死者は10万人を超えたという。
グダローは、冷徹で博識な知識人の目で記録している。特に感染症と闘う人々の様子など貴重な史料だ。
宿場の入り口や交通の要所では、消毒器を抱えた警察官や役人が旅人を追い掛け回す。人力車の人足たちは「もっと薬をかけてくれ、背中にも」とねだる様子が活写されている。消毒器はブリキ板を筒状に丸め、呼気を圧力に噴霧するものだった。
グダローは消毒液のフェノールの悪臭に辟易(へきえき)しながら、8月30日に「コレラがまだ完全に消滅していない」長野に入り、藤屋旅館(旧本陣)で休憩し、昼食をとる。ついで善光寺の本堂、鐘楼、経堂、大勧進、山門、堂庭などへ。「若い案内人は、ほんの少しの謝礼(チップ)も受け取らない」と謙虚さに感心する。
同行の助手に撮らせた写真は、今日のように精度が高いものではなかった。出版に際し、乾板写真を基に銅版画にしたが、本堂の構造が精密に再現されている。瓦屋根は少なく、板ぶきが多い参道の街並みの銅版画も掲載した。グダローは道路が広々として清潔と記している。

グダローは午後2時、人力車に乗り、善光寺を後にする。犀川を渡り、丹波島を経て午後7時に上田着。翌日の31日は日の出前に出発。60キロ余を馬車で走り、群馬の横川で最終列車に乗り込み、深夜に横浜に帰った。
著作は1889年、パリで刊行。5年後には4版を重ねる売れ行きで、「ジャポンの山中にある壮大な寺院」が知られることとなる。
本書は日本で1987年、「仏蘭西人の駆けある記 横浜から上信越へ」のタイトルでまほろば書房から刊行された。明治中期の信越の世相を活写した記録は読み始めると止まらない。
(2020年7月25日掲載)
写真上=明治19年の善光寺(ギュスターヴ・グダロー著「仏蘭西人の駆けある記」より)
写真中=善光寺の山門と石畳(同)
写真下=善光寺・寺町大通り(同)