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238 八丁鎧塚古墳 ~東日本最大級の積石塚

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 須坂市八町の県史跡「八丁鎧塚(はっちょうよろいづか)古墳」は東日本最大級、最古級の積石塚(つみいしづか)古墳ともいわれる。長野市松代の国史跡「大室(おおむろ)古墳群」に並ぶものだ。

 「まあ、大室古墳群の古墳よりでっかいわね。だれが造ったのでしょう」

 孫娘家族を連れ、神奈川県から夏休みの歴史紀行の途中という自称「歴女」が八丁鎧塚古墳に感激していた。総数500基に上る大室古墳にびっくりして「須坂にある、同じ積石塚古墳も見たい」と足を延ばしたという。

 八丁鎧塚古墳は大小6基からなる。1号、2号古墳は直径25.5メートル、高さ約3メートルもある円墳。使用された河原石は膨大な数に上る。大人1人で抱え上げられる数キロのものから、その数倍の大きさのものまでぎっしり積まれている。

 古墳時代(3世紀ごろから7世紀ごろ)は文字のない時代で、不明なことばかり。畿内に集中する天皇の陵墓をはじめ、国内の著名な古墳の6割は被葬者不明だ。

 例えば、ピラミッドより大きい、世界一のお墓と学校で習った世代が多い堺市の仁徳天皇陵だが、調査や研究の結果、仁徳天皇陵と断定できないとし、今日の歴史の教科書には、地元の地名に由来する「大山(だいせん)古墳」または「大仙陵古墳」と記述されている。

 八丁鎧塚古墳の場所にはどんな集団がいたのか。1957(昭和32)年から行われた発掘調査で◇馬具、金属製の帯留め◇腕輪 ◇鏡 ◇勾玉・管玉 ◇鉾、刀 ― など多彩なものが出土した。桐原健・元県考古学会長は「大陸的な要素が強くうかがわれる」と慎重な評価をした。

 「信濃川をさかのぼって、ここまで来たのですか」。歴女の質問はなかなか的を射ている。越後の信濃川河口から川沿いに内陸へ進出したのか、それとも西日本から移住してきたのか。有力な手掛かりはない。

 同古墳の発掘報告書が発表された1961(昭和36)年のこと。当時、須坂高校の社会科教諭だった県立歴史館の初代館長市川健夫さんは、古代史でも論陣を張っていた作家松本清張さんに「日本最大級の積石塚古墳を見に来ませんか」と誘ったところ、大きな関心を示され、すぐ承諾の返事をもらえたという。

 松本さんは同年秋、須坂市を訪れ、須坂高校などで講演し、八丁鎧塚古墳も訪れた。「東北アジアの騎馬民族であった高句麗の人々が海を渡ってきたのではないか」などと説明を受け、松本さんは大変感激していたという。
(2020年8月29日掲載)

写真=大小6基からなる八丁鎧塚古墳。周辺はブドウなど果物畑が広がる
 
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