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02 小学生の頃 ~厳しく愛情深い父を尊敬 夢は「父のような社長に」

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 私は、父・福松と母・美喜の間に、4人きょうだいの三男として1950(昭和25)年に生まれました。東京の池袋、今のサンシャインシティ(豊島区東池袋)から徒歩20分ほどの所に自宅がありました。表通りに出ると車の往来が激しかったのですが、自宅周辺はまだ砂利道で、昔の下町の雰囲気が残っていました。

 父は心から母を愛し、母も父を尊敬し、お互いに感謝し合い、2人のけんかを見たことがありませんでした。父方の祖父母と同居し、母は祖父母によく尽くし、「いいお嫁さんだ」とかわいがられていました。

 祖父母は、元は千葉県で呉服屋を営んでいました。借金の保証人になり、保証先の倒産で連鎖倒産し、親戚の家に居候し、転々とする中で東京へ移りました。

 父は、苦労を重ね、独立して食品会社「久世商店」を創業しました。食料品の卸業から資金をつくり、ケチャップやソースの自社製造を始めました。初めは自転車とリヤカーに商品を積んで父や従業員が配達し、事業が軌道に乗ると、三輪トラックを使い、自宅や従業員用の寮、工場を建てました。1950年に朝鮮戦争が始まると米軍から大量の注文が入り、会社成長のきっかけになりました。

 品物は、企業の社員食堂や、日本橋高島屋、日本橋三越といった百貨店の食堂などに納入し、私は小学校低学年の頃から、父や従業員らに交じって、仕事の手伝いをしました。工場では、トマトを洗ってへた抜き、香辛料の調合、瓶にケチャップやソースの充填(じゅうてん)、王冠の打栓といった作業をしたり、配達の助手や得意先に手紙を届けたりしました。香辛料は十数種類を取り扱っていました。香辛料の入った麻袋が高く積まれた工場の中で、きょうだいでかくれんぼをして遊んだことを思い出します。

 トマトは長野県の農家から買っていて、夏には夜到着したトマトの積み荷を、きょうだいや親戚総出で工場に降ろす手伝いをしたものでした。農家の子どもたちが、農繁期に農作業の手伝いをするのと同じように、特に抵抗感なく家業を手伝っていました。面と向かって褒められたりはしませんでしたが、役に立てている感覚がうれしかった。手伝うと多少のお小遣いがもらえることも、働く喜びにつながりました。

 厳しいけれど愛情深く接してくれる父のことを尊敬し、「格好いいな」と思っていたので、父のような社長になるのが私の小さな頃の夢でした。商人の家なので、常に人が出入りしていて、従業員と一緒に生活しているような感覚でした。いつも人に気を使うような落ち着かなさがあり、サラリーマン家庭をうらやましく思うこともありました。

 両親は仕事が忙しくて、一緒に出掛ける機会はなかなかありませんでした。私は、小学1年生の頃から、きょうだいや従兄弟たちと列車で、山ノ内町の渋温泉の小石屋旅館に毎年行かせてもらっていました。夏は1カ月くらいのんびりと、冬は志賀高原でスキーを楽しみました。当時、スキーをやっていたのは、小学校のクラスで私一人くらいでした。相当恵まれていたと思います。

 湯田中温泉や渋温泉の街並みは、今も当時とあまり変わりなく、訪れると懐かしい気持ちになります。山並みのある信州の田舎の景色は私にインパクトを与えました。子どもの頃にこうして信州との接点ができたことが、後に信州に移り住むきっかけになりました。
(聞き書き・松井明子)
(2021年2月20日号掲載)


写真=七五三の記念に鬼子母神堂(東京都豊島区)で。私は5歳、父は35歳ころ