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98 糸の村・糸の町25 山丸組 ~須坂製糸の歴史そのもの

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  須坂小唄
(1番)
 山の上から
 チョイと出たお月

 誰を待つのか
 またれるか
 ヤ カッタカタノタ
 ソリャ カッタカタノタ

    ◇

 1920年代、つまり大正半ばから昭和の初めにかけ、須坂の製糸業はクライマックスを迎えた。この勢いに乗って野口雨情と中山晋平、当代随一の人気作詞家・作曲家コンビで誕生した新民謡こそ「須坂小唄」だった。

 当時、何より光彩を放ったのが製糸企業山丸組の成長であり、創業者越寿三郎の存在だ。「南の片倉、北の越」と並び称されたほどである。山丸組の足跡は、須坂製糸の歴史そのものといってもいい。

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 越寿三郎は1864(元治元)年、高井郡須坂村の豪農小田切新蔵の3男に生まれた。二十の折に越家の養子となる。繭の仲買人として製糸業にかかわり、23歳で26釜の山丸製糸場を創業した。

 そして製糸結社の俊明社に加わる。ひたすら事業の拡大に打ち込み、創業8年目の94(明治27)年には、214釜の大工場に成長させた。同時に31歳の若さで俊明社の社長に就任する。目覚ましい頭角の現し方である。

 ここから山丸組は加速的に、躍進の上り坂をたどった。小さな工場でスタートし、小さな者同士が力を合わせた結社をバネに弾みをつける。岡谷の片倉組とよく似た歩みだ。

 須坂市誌第5巻によると1914(大正3)年、越が須坂町内に所有する4製糸場の生糸生産高は、町内全36工場の34%を占めた。25(同14)年、新たに再繰所を設立、俊明社から山丸組を独立させる。翌年の山丸組生産高は、全町内33工場の49%相当に達した。

 まさに山丸組の、さらには須坂製糸業の全盛期、23(大正12)年12月に須坂小唄は鳴り物入りで登場する。いきなり東京の帝国ホテルで「カッタカタノタ...」と披露された。翌年2月、須坂で発表会や歌と踊りの伝習会が開かれている。

 もともとは山丸組の工場歌とするよう発案された。レコードにもなるなどして市民の間に広まる。替え歌も幾つか口ずさまれ、今なお親しまれている。

 当時、須坂町内の製糸工女は約6千人を数えた。若い女性相手に菓子・小間物・下駄・呉服などの店がにぎわう。劇場も開業し、街に華やぎを添えた。

 そのころからほぼ100年、市内を歩けば、製糸業繁栄の名残にさまざま出合う。越寿三郎ゆかりの旧越家住宅は市に寄贈され、市民の学習、交流の場に生かされている。

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 産業としては蚕糸業が途絶えて久しい。けれどもそこではぐくまれた蚕糸文化の根は、いまだなお深い。

(2021年3月27日号掲載)


写真上=須坂市春木町の旧越家住宅
写真左=繭仲買人当時の若き越寿三郎
 
蚕糸王国うた紀行